「写真の会賞」における情実

「写真の会賞」は、西井一夫を中心として集まつた「写真の会」の会員が話し合つて、「写真的行為」に対して出す賞ださうである。西井は亡くなつたが、会も賞も続いてゐる。
1998年の第10回は浜田蜂朗『殺風景』(浜田蜂朗写真集刊行会、1997)と他二作品に授与された。浜田は本が刊行される前に亡くなってゐる。死を悼む友人たちの手によつて編まれた、唯一の写真集なのである。浜田がどんな人間か、そして本が作られた経緯は後書に詳しく、また、西井一夫による追悼文(『20世紀写真論・終章』青弓社刊、2001)も読めば、よく分る。その西井の文章「浜田蜂朗に捧ぐ」より「写真の会賞」が出てくるところを引く(p.228):

それだけではなく、九七年は私にとって第三の地獄の年で、『20世紀年表』という分厚い本を九月に出すノルマに引っかかって文字どおり身動きできない状態となり、写真集の編集も手つかずとなり、急遽森山さんに代わってもらった。いやはや情けない限りだ。罪滅ぼしに写真の会賞を贈り、私としての追悼文を書き、墓前に供えて、浜田への手向けとしたい。

ここでいふとは写真集の編集をできなかつたことを指すのだらうが、この追悼文全体からみると、不遇だつた浜田への助けが十分にできなかつたこととも感じられる。
西井はこの本の発行者のうちの一人であるから、自分で作つた本に自分で賞を与へたことになるが、これはたとへば有名な文学賞でも、賞の主催者と版元とが同じであることは多いから、特にどうかういふことではない。しかし、浜田に対しての罪滅ぼしで賞を決めたのなら、個人的な人間関係が賞の理由になつたことになる。私的なグループが誰にどんな理由で賞を出さうが自由だから、非難されることではない。が、写真の会賞と聞くと私はこの一節を思ひ出すのである。
西井は浜田への個人的感情を抜きにしても、写真を褒めることができたはずだ。賞に値するほどの作品だと、西井は友情とは関係なく認めてゐただらうし、本を手に取つた人々もそれを納得したのである。それなのに、善意の行動を記したとはいへ、追悼文でこんな書き方をする。変な人である。単なる読者・見物である私はこれを読んで「情実で賞をあげたと公言する人も珍しい」と大笑ひしたが、あの世の写真家は苦笑したか、憮然としたか。よつぽど大らかな人だつて、言はれた当人ならば、このひとことは胸に突き刺さるだらう。