似てゐるといふこと

以前から 小林伸一郎氏 盗作・盗用検証サイト などで指摘されてゐたことだが、結局『棄景』の丸田祥三が、小林伸一郎を訴へた、と。少くともこれらの写真を比べると、丸田氏が怒るのも無理はないとは思ふが、法的にどう判断されるかは、私には分らない。その場所が一度知られてしまへば、多くの「カメラ」がそこへ行くだらう(最初の写真が素晴らしいならば、なほさら)。偶然でも似た写真が撮られることはありえる。風景写真では避けられない面もあらう。
「検証サイト」には、他にも問題がありさうなものがあげられてゐる。池尻清の作品に似たものは、カメラ雑誌で初めて見たときに異様な印象を受けた憶えがある。明らかに以前見たことがある写真(と同じに見える)なのに、作者が違つてゐるのは気持ち悪かつた。
もつとも写真の世界では珍しいことではない。高橋周平編著『写真の新しい読み方』(宝島社、1992)は、古今東西の写真作品を渉猟して、偶然(?)似てしまつたものから、明らかな盗作までを整理してまとめた本である。これを読めば、よく分る。特に広告写真の分野では「盗み」が横行してゐる。上の話などは(仮に小林氏が盗作してゐたとしても)可愛いものか。
私の経験。名前は忘れたけど、かつて日本カメラに出てきた写真家(たしかアマチュアで、老人、ニコンサロンで個展をしたのに合せて掲載)は酷かつた。ラルフ・ギブソンヘルムート・ニュートンの真似をしてゐた。ポートレイトで、構図や小物の使ひ方まで根本的なアイデアをそのまま使つてゐた。あたかも自分の思ひつきのやうな注釈がついてゐたのが図々しい。あまりに腹が立つたので、元になつたもののコピーをつけて編輯部へ苦情を送つた。が、無視された。
かういふ話を聞くたびに思ひ出す文章。細江英公『抱擁』(写真評論社、昭和46年)の「あとがき」より:

思えば十年前「おとこと女」を発表し、その直後に「抱擁」と題し撮り始めた頃、ビル・ブラントの「パースペクティブ・オブ・ヌード」という思いがけない驚嘆すべき写真集が日本に送られてきた。「抱擁」の一部がその本の中の、海岸で撮影した耳や足や手などをクローズアップした作品ときわめて酷似していて、その事は正に偶然のこととはいえ、私にとっては悲劇的事件であった。私はその事があって、「抱擁」の撮影を一切中止してしまった。似ているということは致命的である。私にとっては、実に生理的に嫌なことなのだ。誰もやらないこと、ただそのことのために全てを集中し、そのことの喜びのために仕事をしているのである。

そして、十年かかってビル・ブラントを「超えた」作品を世に出した、と。
これを読んでどう思ふか、小林氏に訊いてみたい気がする。本城直季にも。


(2010年1月27日追記)丸山氏による裁判の報告ブログが作られてゐる: