尾仲浩二『フランスの犬』(蒼穹舎、2008)

尾仲の九册目になる写真集。今までとはかなり印象の違ふ本だ。1992年のフランス滞在時の写真ださうだが、安宿のなかで撮られた狭苦しい眺めが中心で、風景までも暗く、目の前を何かで塞がれた感じ。尾仲氏ならではの、静かななかに心躍る感じはない。黒い布張りの装丁、余白の広いレイアウトも孤独の気分にふさはしいやうな。さらには、見開きで写真の向ひに、元気のない短い言葉が添へられる。
この本は、2005年に私家版として作られた同題の小册子が元になつてゐる。素材は同じでも別の本なのであるが、どうしても、それと比べてしまふ。元のはうは写真と文章(当時の日記)とが同じ重みでまとめられてゐる。私的な旅行記としてまとまつてゐる。今度の写真集では、写真を倍くらゐに増やして(印刷は全く違ふ)、文章が大きく削られてゐる。写真集のあり方としては好ましいのだが、その削り方が、ちよつと、元と比べると違和感がなくもない。要点となる文を選んで残したにしろ、あまりに断片過ぎないか。前後の流れがあつてこそ共感できるし、事実としてどういふ経験をしたのかも伝はるのではないか。たとへば、あるページでは、あまり人のいないところへ行きたいとだけあるけれど、元ではパリで観光客だらけの名所を歩き回つて疲れはてたことが記されてゐる。それがあるとないでは、伝はる意味が違つてくるだらう。また、百本のフイルムは半分の残ったままとだけあるが、フランスに何日ゐたか書いてあれば、どんな調子で写真を撮つてゐたのか、本をみる人にも想像できて親切だつたのではないかな。元の日記とは違つた印象を与へて、いけないわけではないのだが。

『Studio Voice 写真集の現在 2008』

毎度お馴染みの特集。イギリスの写真家で、スティーヴン・ギル(Stephan Gill)が最初に出てくるが、この人は知らなかつた。まあ世の中知らない人だらけなんだが。で、彼の作品の紹介とともに、書棚を拝見といふページがあつて十册が紹介されてゐる。知らなかつたもの、欲しいけれど見たことのないもの、そして持つてゐるもの。John Gossage の Secrets of Real Estate があげられてゐる。名前がカタカナでゴサージュとフランス風(?)に書かれてゐる。さうだつたのか。横浜美術館は「ゴセジ」と書いてゐたが。野球選手にゴセージといふのもゐたし。それはともかく、この本もいいけれど、他にも Gossage の本は面白いものが多い、とひと言欲しい。ギル氏の言葉には彼は間違いなく最高のイメージメーカーのひとりとあるが、それ以上に最高の photobook maker だと思ふ。あとは金村修の『Spider Strategy』、この本は装丁から中の造りまで、たいへんよくできてゐて迫力がある。金村の本は何册か刊行されてきたけれど、圧倒的にこれがいい。
かうした書棚拝見とか、誰某が選んだベスト10の類はよくある。需要があるのだ。実際、私もとりあへず、どれどれと見てしまふ。これがあちこちで、人を変へて(または同じ人が何度もあらはれ)繰返されていくうちに、傑作と広く呼ばれるものが決つていく。部数の少い本の場合、それだけで決るやうなもんである。

「写真の会賞」における情実

「写真の会賞」は、西井一夫を中心として集まつた「写真の会」の会員が話し合つて、「写真的行為」に対して出す賞ださうである。西井は亡くなつたが、会も賞も続いてゐる。
1998年の第10回は浜田蜂朗『殺風景』(浜田蜂朗写真集刊行会、1997)と他二作品に授与された。浜田は本が刊行される前に亡くなってゐる。死を悼む友人たちの手によつて編まれた、唯一の写真集なのである。浜田がどんな人間か、そして本が作られた経緯は後書に詳しく、また、西井一夫による追悼文(『20世紀写真論・終章』青弓社刊、2001)も読めば、よく分る。その西井の文章「浜田蜂朗に捧ぐ」より「写真の会賞」が出てくるところを引く(p.228):

それだけではなく、九七年は私にとって第三の地獄の年で、『20世紀年表』という分厚い本を九月に出すノルマに引っかかって文字どおり身動きできない状態となり、写真集の編集も手つかずとなり、急遽森山さんに代わってもらった。いやはや情けない限りだ。罪滅ぼしに写真の会賞を贈り、私としての追悼文を書き、墓前に供えて、浜田への手向けとしたい。

ここでいふとは写真集の編集をできなかつたことを指すのだらうが、この追悼文全体からみると、不遇だつた浜田への助けが十分にできなかつたこととも感じられる。
西井はこの本の発行者のうちの一人であるから、自分で作つた本に自分で賞を与へたことになるが、これはたとへば有名な文学賞でも、賞の主催者と版元とが同じであることは多いから、特にどうかういふことではない。しかし、浜田に対しての罪滅ぼしで賞を決めたのなら、個人的な人間関係が賞の理由になつたことになる。私的なグループが誰にどんな理由で賞を出さうが自由だから、非難されることではない。が、写真の会賞と聞くと私はこの一節を思ひ出すのである。
西井は浜田への個人的感情を抜きにしても、写真を褒めることができたはずだ。賞に値するほどの作品だと、西井は友情とは関係なく認めてゐただらうし、本を手に取つた人々もそれを納得したのである。それなのに、善意の行動を記したとはいへ、追悼文でこんな書き方をする。変な人である。単なる読者・見物である私はこれを読んで「情実で賞をあげたと公言する人も珍しい」と大笑ひしたが、あの世の写真家は苦笑したか、憮然としたか。よつぽど大らかな人だつて、言はれた当人ならば、このひとことは胸に突き刺さるだらう。

山本昌男 : Fujisan

昨日の続き。どんな本か。小さく薄い本で、十点の写真。九点が「reproductions」で一点が「original photograph」。タイトルの通りなのだが、三つは富士山みたいな形をした別のものである。山そのもの(或はその代りのもの)の見え方はいたつて普通で、つまり、あの形である。馴染みのものが、著者の写真の作り方にはまつてゐるのである。
何しろ富士山だから、どうしても新鮮みは薄い。よく知つたものが違つて見える、といふより、違つたものもよく知つたものに見える、といふ作品である。外人向の趣向なのか、と少し思つたが、さういふことはしないはずだ。山本さんの今までの作品のなかにも「富士山」はいくつもある。よく見ると、それとはすぐに分らないやうに紛れてゐるの発見する。この人の好きな形なのである。すでに薄々、察してゐたことについて、種明しをされたやうな気分もした。

Masao Yamamoto : Fujisan (Nazraeli Press, 2008)

知らないうちに売り出されて、知らないうちに売り切れてゐた。そのうちに「古書」として出てくるだらうと思つてゐたら、まとめて出てきた。業者が買占めてゐたのか。元の値段は分らないが、たうぜん彼らの利がのつてゐる(それは悪いことではない)。五百部限定で「オリジナルプリント」が一枚貼付けてある、Nazraeli Pressの謂ふところの「One Picture Book」で、山本さんとしては二冊目のそれになる。
※追記:今確認したらNazraeli Pressのサイトでも売りはじめてゐた。

John Gossage : Secrets of Real Estate (The Sheldon Art Galleries, St. Louis, 2008)

私は三月に55ドルで買つたのだが、今見たら同じ店で75ドルになつてゐる。売行きがよくて、残りが少くなつたので値上げしたと思はれる。本に定価の記載はない。これが一度売切れると、古書市場(古書とは一度買はれたことがある本といふ意味)で値段がさらに上がるのだらうが、それは先の話として、限られた部数の本を作つておき、売れるに従つて値段を上げていくとは、オリジナルプリントを売るのと同じやり方である。評価に応じて価格を変へるのは、合理的である。当然、逆に売れなければ下げることになる。日本での例は知らないが、写真集を売るのに、かういふやり方もあるのである。
タイトルは「不動産の秘密」か。アメリカの住宅などの外周の細ごました眺め。もちろん、あへてさう言ふからには、秘密といふ程のものではないのである。実物を知らないからよく分らないが。

ラルフ・ギブソンとラストラム・プレス

知らなかつたが、去年にアリゾナ大学の Center for Creative Photography で、Ralph Gibson and Lustrum Press, 1970―1985: A Chapter in the History of Photo Book Publishing といふ展覧会があつたのだつた。

http://www.creativephotography.org/press/

press release をダウンロードして読んでみると、タイトルでは 1971-1985 とあるのが、なぜか文中では 1970-1984 になつてゐる。どつちでもいいやうなものだが、持つてゐる本では、1985年の John Flattau: Bridges がある。最初の本は1970年、ギブソンのThe Somnambulistで、その間に何冊を出版したのか。古書市場に出てくるものを数へると三十冊もなくて、これを約十五年かけてなのだから、出版社といつても、ささやかなものである。以下まとめた。

ラストラムプレスの本